閉店、閉鎖、倒産の前兆

 CAMP-2が倒産した。私は殆どの登山用品をCAMP-2で購入していたので今後どこで買えばいいか、まだ決めていない状態である。しかし、一つ言える事は、CAMP-2の経営は何かおかしかった。

 CAMP-2の経営がどういう理念で行われていたか、知らない。しかし、CAMP-2に行くたびに感じていたのは、“この店は誰の為にやっているんだろう?”と言う疑問である。店員の為か? 何かノンビリした雰囲気で締りが無い。その雰囲気が良いといえば良いのかもしれないが、売ろう、即ち、お客に買ってもらおうという気力が全く感じられない。それぞれの店員が悠々自適な店員生活を楽しんでいるような。

 しかし、店員の入れ替わりも激しかったのか? 日によって老人店員ばっかりだったり、ある古い店員も最後まで見かけたが、この人はやっぱり売ることに熱心ではなかったし。店員と経営者の間で何かあったんだろうな、ということが何となく分るような。倒産した理由は、売り上げが落ちたことが最大要因だろうが、その直接的な原因は結構古い時代から内在していたような気がする。

 話は変わって、ラーメン金龍。近所の金龍が次から次に閉店したため、最近では結構遠くまで食べに行くようになった。しかし、腐り始めた店はどこに行っても腐ってる。アルバイト店員はペチャクチャ私語ばかりだし、トイレの汚れの酷いこと。若い店員が私語するならまだ分るが、おばちゃん店員と若い男の店員が大声で喋ってる。俺はそういうことにはうるさいのだ! 仕事時間中は私語を慎みなさい! 今日も開店の11時過ぎに行ったが、まだ開けていない。ドアに書いてる開店時間ぐらい守れよ!

 金龍での俺のラーメンの食べ方は、320円のラーメンを注文し、秘伝のたれを小さじ半分、ニンニク摩り下ろし小さじ半分、高菜を子皿に適量取り、ラーメンと混ぜ合わせた後に摺りゴマを振って食べる。餃子とか、チャーハンとかは注文すると割高になるので頼まない。どうしても足りない時は替え玉の100円を追加するが、最近では健康の為に頼まない。

 最近では、この高菜が塊のまま容器に入っている。多分、真空パックから出して解きほぐさないまま、容器に入れているんだろう。手抜きもいいとこだ。ラーメンの中でちょっと混ぜても高菜の塊が解きほぐれない。こんな事がまともなことか、否か、分らないんだろうか? 経営者は。現場の実態を知らない経営者は100%駄目だよ。

 俺は、工場を閉鎖させてきたんだけど、もう少しましな経営をやったよ。会社の分工場だから工場長であった自分の金には何も影響しないけど、金龍とかチェーン店経営者は潰れたら困るんだろう? もっと真剣にやらなくていいのだろうか。

 ついでに俺が工場を閉鎖した時の事を一言。

 工場従業員は約10人。工場の体制は、工場長→作業長→工長→従業員が本来の姿だが、前任工場長と部下の仲がうまく行かず、まず作業長が辞め、工長も辞め、俺が工場長になったときには作業長も工長もいない状態。何の為に俺が工場長で派遣されたかと言うと工場の収益改善のため。平成何年だったかの12月に内示があって、翌年1月初日から着任。

 開発会議なんかで工場には前から行っており、工場の人間とは顔見知りだったので、工場の人間には俺が行って喜ばれたみたい。前任工場長はよっぽど人間的におかしな人物だったのだろう。あそこまで下から嫌われる理由が良く分らない。

 工場長室は工場の規模に見合わず、約10畳位の個室。机は両サイドに袖机が付いて1.5m幅位あっただろうか。来客用のソファと机もある。工場長とは言っても作業長も工長もいないので全ての管理業務から対外的な付き合い、製品のPRからクレーム処理までやらないといけない。労基署の会議にも行けば、漏水による水道料金の値引き交渉に市役所に行ったり、何でも屋だ。

 しかし、やらねばならないことはただ一つ。収益改善のみ。その為には工場の売り上げを伸ばすこと。経費を抑えること。製品開発リーダーも兼務していたので売れるか、売れないか責任は思い。経理状態は本社が集計した数値を分りやすくグラフにして皆の励みになるように張り出した。工場長としての経営方針を全員に伝えるように努めた。

 ところが、3月に本社の事業部長から工場閉鎖決定のメール。5月末に閉鎖完了しろとの事。

 大体、工場長とは言っても工場閉鎖のやり方など経験したことが無い。更に工場閉鎖は許可が出るまで秘密厳守で閉鎖業務を進めろと言うのだから厄介。こんな時、工場で閉鎖の事を知っているのは俺一人なんだから孤独。誰にも相談できない辛さ。

 しかし、何とか5月末までに工場閉鎖を完了した。従業員は全員最後の日まで仕事をしてくれた。非常にあり難いことだった。事業部長からは「あんたには非常に申し訳ないことをした。工場閉鎖が決まっていたのなら行かせるのではなかった。工場閉鎖については、成績評価のマイナス点にはしないので。」と言われた。しかし、単身赴任で家庭のあり方も考えて会社の引き時だと思った。「閉鎖後、必要なら北九州に戻してやる」とも言われたが、辞める事にした。

 最後のお別れ会で50代の退職者の一人が「この会社は凄いよ。寝巻き姿で出社していたような自分をここまで育ててくれた。感謝している」と言った。俺も30〜40代を充実した仕事をさせてくれたこの会社に感謝している。工場閉鎖で4人が退職し、バラバラになるのに会社に恨み言を言う人間は誰もいなかった。

 今考えるとこの会社はトップから末端までそれなりに目標を持って燃えていた。リストラも何度もやった。約15年で社員は半分近くにまで減った。昔のノンビリした社風から現在では完全な業界No.1の貫禄を持つ会社に変身した。この会社で仕事できた俺は幸せなんだろうと思う。  

                                                             2006年4月29日記

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